終電社畜の『生活』『疲労』改善プロジェクト

終電、満員電車、安い飯、短い睡眠時間。そこからくる疲労、ストレス心の闇。まずは生活と疲労を安定させれば何か変わると思うのです。一緒に一歩進みましょう。

中島みゆきの『言葉』と西野カナの『言葉』

 

以前テレビで有吉さんが言っていた言葉が

なんとなく引っかかりました。

 

■『お前らの言葉なんか俺には響かない』

 

『お前らの言葉なんか俺には響かない』

 

これは西野カナに関する話をしていた時だったと思います。

 

引っかかったというのは決して悪い意味とかでなく、

言葉というものの価値を考えさせらたのです。

 

■言葉の価値はどこにあるのか

 

言葉の価値というのは

なんとなくその言葉自体にあるような気がしていました。

 

もちろん言葉そのものにも価値はあるでしょう。

多くの場合は違うのかもしれません。

 

もし言葉そのものに価値があるのなら、

有吉さんのこの言葉は成立しません。

 

中島みゆき西野カナが同じ歌詞を書いていたら

 

例えば、

西野カナさん

『どんなあなたも好きだよ』

という歌を歌っていたら。

 

中島みゆきさん

『どんなあなたも好きだよ』

という歌を歌っていたら。

 

歌詞の重みが全く変わりませんか?笑

 

中島みゆきの歌詞だったら、

聞き手は勝手にその歌詞の裏側の

メッセージみたいなものを想像してしまうのでは

ないでしょうか。

 

つまりは言葉の価値とは、

それをいう人とそのバックボーンにより

大きく価値を変えるのです。

 

日常生活でも同じ言葉だとしても誰の言葉かで、

納得度が全く変わるということは非常に多いのではないでしょうか。

 

言葉に重みを持たせられる人。

単純な言葉でも相手に意味を考えさてしまう

位の素敵な人間になりたいものです。

 

 

 

10人中9人は・・・

10人中9人は、

親しくなってみると

好感がもてる。

 

相手のことを良く知れば、

往往にして嫌いにはなれない

ということでしょうか。

 

 

『自分が正しい』『相手が間違っている』じゃあ戦争はどちらかが正しかったのか?

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あの人の言っていることは間違っている。

あの人の行動はおかしいなんて思うことがあります。

 

■相手は絶対的に間違っているのか?

 

しかしです。

確かに間違っていることもありますし、

中にはそうでないこともあります。

 

そして1つ考え方として持っておかなければならない事があるのです。

 

■相手は自分の行為を間違っていると認識しているのか?

 

それは相手はその行為、発言に対し

間違っていると思っているのかという事です。

 

答えは99%否です。

 

相手は相手なりの行動原則に従って、

正しいと思うことをしています。

 

もしくは間違っていることを含んでいることはわかっていても、

それにより得られる、

プラス面の方が強いということもあるでしょう。

 

■安易に相手を非難してはいけない

 

『相手は間違っているかもしれないが、

 相手自身は自分が間違っているとは

 決して思っていない。

 だから相手を非難しても始まらない。

 相手の考え、行動には相当の理由があるはずだ。』

 

こんな言葉があります。

 

要するに相手の立場になれば、

往往にしてそれはそれで正しいのです。

 

ただ問題はこの事実に気づいていない人が多く、

自分の視点から見て正しいかのみで判断する人

多すぎるのです。

 

■戦争映画にみる視点の違いにおける事実の相違

 

戦争映画などがいい例なのですが、

日本人が作った戦争映画というのは往往にして、

戦争の相手国が悪く描かれる事が多いです。

 

しかし、同じ題材を他国から描くと、

全く逆で、日本人とは不気味で、

殺戮をなんとも思わないとんでもない人種のように描かれます。

 

立場が変われば、

普遍的であるように思える

事実ですら違って見えるのです。

どちらも正しいんですけどね。

 

私自身口が先に動いて、

ろくに相手の立場を考えない主張をしてしまったなと、

よく後悔します。

 

皆さんも是非相手に何かを思った時は、

一旦立ち止まって、

相手の立場だったらどう見えているのかなぁ

と考えて見てほしいのです。

 

 

人を『褒めて』も『叱って』もいけない。ではどうするのか?

 

相手に何かを強く伝えたいとき、

あなたはどのような伝え方をしますか。

 

■人は褒めても叱ってもいけない

 

褒める、叱る、これは人の成長について考えるとき、

誰もが積極的に用いるアイテムです。

 

褒めても叱ってもいけない、

アドラー心理学では全ての人を『尊敬』するべきだと

主張しています。

 

■ただただ尊敬をすべき

 

そもそも尊敬とはなんなんでしょうか。

 

相手を尊敬しているとき、

私たちはその姿に強く憧れます。

しかし尊敬という言葉が何かと

問われれば明確な説明をできない人が

ほとんでしょう。

 

褒めても叱ってもいけない、

全ての人を尊敬するべき・・

 

全ての人は横の関係にあり、

褒める、叱るは縦の関係の中で

成立する事象だから認めないというのです。

 

■褒めることもダメなの?

 

叱るがダメなのはわかるけど、

何故褒める事がダメなのだろう。

褒めて伸ばすなんてむしろ賞賛されてきた

方法であるというイメージがあります。

 

では何故・・

 

この褒めるという行為の根底には、

承認欲求があるからです。

 

褒められてやる気が出る人、

褒められるからやるなんていう

考え方は逆を返せば、

褒められなければやらないということにもなります。

 

そしてそれは相手ありきの考え方にもなります。

相手にどう見られて生きて、

どうしたら褒められるかが、

その人にとっての人生の最重要課題になるのです。

 

そこで出てくるのが、

『尊敬』という行為になります。

 

■尊敬とはなんなのか

 

ではアドラーは『尊敬』をどのよう定義しているのか。

 

『その人がその人らしく成長、

 発展していけるよう気遣うことである。』

 

と定義しています。

 

これってわかるようでわからない。

 

■尊敬を教育に当てはめた場合

 

これを子供への教育と考えた場合どうなるでしょうか。

 

勉強をしない子供がいたら、

状況にもよるかもしれませんが、

多くの親は叱ったりするのでしょう。

 

しかし、その行為は尊敬に該当するのでしょうか。

 

本人が本人らしく生きるために

気遣う行為として叱る事が正しいのでしょうか。

 

それは『私』の考えを押し付ける行為では

ないと100%断言できますか。

 

■尊敬するための具体的な方法論

 

『尊敬』をするための具体的な方法論として、

相手の関心ごとに興味を持つという事があります。

 

これに関しては自分の関心ごとに興味を

持ってくれる人がいたら、

非常に尊重されている気がしませんか?

 

自分より目上だと思っている人。

 

例えば会社員だとしたら社長。

自分が釣りに関心を抱いている。

社長がそれに大きな興味を持ってくれたら、

あなたはどのように感じるのでしょうか。

 

こんな私のことに関心を持ってくれ、

非常に大きな心の持ち主なのだなぁ

と思うのではないでしょうか。

 

これが子供と親であったら、

より強くそれを感じることでしょう。

 

現実的に褒めるもしかるもしないって、

かなり難しい行為だと思います。

 

しかし、尊敬するという考え方が根付くと、

自然と褒めたり、叱ったりという事が、

その考えに共存しないという事がわかります。

 

是非他人を今以上に尊敬してみてください!^^

 

 

 

カフェでご飯を食べたくないという気持ちってないですか?

本当にどうでもいい話なんです。

 

僕は作業や読書をするときに

結構カフェに入り浸るのです。

 

もちろんそれなりに長居できる雰囲気の店で。

 

例えば昼くらいから行くとすると、

結構カフェで飯食う人とかもいるんですが、

僕はなんかカフェでご飯を食べたくないんです。

 

カフェって飲み物メインで、

デザートをたまに食べるくらいの場所という

感覚があります。

 

食事の場というイメージがないんです。

 

そしてメニューもありきたりで、

特別こだわっているわけでもない・・

(超勝手な妄想ですが。。笑)

 

そこで1食を取ってしまうとなんか損をしたような・・

 

かと言って美食家とかってわけでもなく、

特別いいものを食うわけでもないのです。笑

 

スーパーの弁当で済ます日もあるくらいなのですが、

どうしてもカフェでの食事は気が進まないのです。

 

誰かこれに納得の出来る理由を

付け加えて欲しいです。笑

『君の立場になれば、君が正しい。僕の立場になれば、僕が正しい。』

 

正しい

正義

 

こんな曖昧な言葉を普通に

使っている人がいてびっくりします。

 

■正義という言葉を使う人は信用ならない

 

正しいという言葉はかなり凡庸な言葉なので、

よく使うかもしれませんが、

 

正義

 

この言葉を使う人がいたら、

僕はあまり信用できません。

 

以前私の上司で、

自分のことを正義と言っている方がいました。

 

どういうつもりで言ったんだろうなぁと

今でも思います。

 

■正義という言葉の意味

 

ちなみに正義という言葉の意味は??

 

倫理合理性法律自然法宗教、公正などにもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。

道理に適った正しいこと全般を意味する。

 

道徳的な正しさが自分にあるなんて、

とても大それた話だとは思いませんか。

 

自分なりの正義という意味なら

少なからず納得いきますが。。

 

■なんかしっくりきた言葉

 

『君の立場になれば、君が正しい。

 僕の立場になれば、僕が正しい。』

 

誰の言葉かは忘れましたが、

全てがこの言葉に集約されている

ような気がしました。

 

正しさなんて普遍的に存在するものではなく、

それぞれの立場と置かれた状況があり、

そこから考える最も合理的だったり、

自分のメリットを

最大化する方法を考えたりする訳です。

 

■例えば世界を見たときに・・

 

日本にいれば、北朝鮮核兵器を持つなんてありえない。

世界平和を目指そう!核実験はやめろ!と思う訳です。

いわば正義は日本。悪は北朝鮮

 

北朝鮮から見れば、

核を持たなければ、国の存続が危うい。

国家や自分たちを守るために威嚇し続けなければならない。

正義は北朝鮮で、悪は国家の存続の邪魔をする

アメリカだったり日本だったりする訳です。

 

つまりは自分が道徳的に最も正しい、

自分が正義なんて言っている人間は

視野の狭い、バカだと思うのです。

 

自分の立場から見たらAだと思うけど、

あの人は何故Bという選択をするのだろうか。

 

全員がこの思想で持って、

相手のことを心から理解しようと考えれば、

世界平和なんて大きなことは言えませんが、

身の回りの幸福な人は増やせるのでは

ないのでしょうか。

 

 

気分を害されたときはその『相手』を『方程式』から外してみる

 

 

 

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怒ったりイラついたりって

結構日常茶飯事に置きますよね。

 

■様々なイライラ

 

目の前の車の運転。

おばちゃんが横に広がって歩いてて邪魔。

車道を我が物顔で走る自転車。

駅前にたむろする学生。

 

まぁ本当に些細なことで

我々はイラつくわけです。

(私だけ?かも笑)

 

■イライラする自分って好き?

 

ふとすると本当に些細なことに

イラついています。

 

まぁ1人で車中怒っているくらいなら、

周りにも迷惑かからず、

さほど問題はないかもしれません。

 

でも一番大きいのは、

そんな自分が好きかということです。

 

ちょっとした赤の他人の車の下手な運転くらいで

イラついているような人間でいいのか。

そんな人間を我々は目指していたのでしょうか。

 

どんな人に憧れるか考えて見てください。

どう考えてもそんなくだらないことに

イラついてるようなやつ尊敬できません。笑

 

■先ずは相手の立場で考える

 

当たり前のことを言ってしまって少し恥ずかしいのですが、

結構これ忘れがちなんです。

 

相手の行動には相手なりの意味があります。

例えばスピードが遅い車が前にいるかもしれませんが、

もし自分が何か調べ物をしながらとか、

イヤホンマイクで電話なんかしていたら、

同じように遅く走ることはないでしょうか。

 

相手の立場に本当になることができれば、

イラつきはしますが、

でもまぁしょうがないのか。

 

という気持ちになることがほとんどです。

 

■自分の経験がたらない

 

自分の経験が足りないことも、

怒ってしまう1つの原因のようです。

 

私は以前はバイクしか運転していませんでした。

 

車のことなんか気にもせずそれなりに

無茶しながら走っていましたが、

車に乗るようになると、

そんな無茶なバイクにイラつくようになりました。

 

しかしふと我に帰ると、

あ〜それやっちゃうよな。

って思えるんです。

両方の目線を知っているから。

 

だから、いろんな経験を増やして、

いろんな目線を増やすことをお勧めします。

人生も。

 

■相手を方程式から外す

 

以前本で見た方法なのですが、

イラついたときはその相手を

方程式から外してみると、

そんなにイラつくこともないのだそう。

 

例えば、

 

あなたは湖でボートを運転しています。

他人がよそ見をしていたためそのボートが

あなたのボートにぶつかってきました。

このとき少なからずあなたは周りみとけよとイラつきます。

 

次に、湖でボートを運転しているところに、

無人のボートが流れてきてあなたのボートに当たりました。

 

ここであなたの身に起きていることは何も変わりません。

 

あなたのボートに他のボートがぶつかっただけです。

 

しかし、それが友人か無人かでイラつきが

変わるなんでおかしな話だと思いませんか。

 

意図的にその事象から、

人を外して無人のボートにしてみるのです。

すると怒りはどうなるのか。

 

結局のところ、そう言った人たちの問題でなく、

全ては自分がどうするかに集約されるのです。