生きるとか仕事とか自意識とか

年齢を重ね経験が増える一方で、常識や固定観念に縛られていく。日々小さな気づきで少しずつでも成長したい。自分なりの「生きる」を見つけるための道。

押し付けられた「感謝」


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1.はじめに

ある日の午後、ふとした会話の中で私は自身の「感情の動き」に気づいた。

感情の動きとは非常に興味深いことである。感情が動くと言うことは、対象物の中に自分にとっての重要な何かを含んでいることを示していると言う。

言葉にはできないが、実感として感じる部分がある。故に私は感情の動きを大切にしている。それが今日、発生したと言うのだから、向き合わないわけにはいかないだろう。

 

2.「不快」と言う感情の発生

私は「不快感」を感じていた。

その原因は明快で、ある動画である。

これは、対象とする「グループ」への感謝を告げるものであった。

 

3.何への「不快」なのか

これが何に対するものなのか?私は理解できていなかった。

自身が非常に偏屈な人間であることは認めよう。しかしそれなりに一般的な感情は持ち合わせている。だからこそ、本件における全てに不快感を抱いているわけではないことはわかっていた。

仮に、その動画が本人の意思で、個人として特定の誰かに送られているものであったならどうだろうか。「よくそんな手間をかけるな」と考えるではあろうが、私は気分を害さない。感動をするか、全く興味を持たないかである。

 

つまり、本事象そのものが問題ではないと言うことである。

では何が問題ないのか?

 

4.私は主体に「不快感」を抱いている

こう言うことだ。

事象の発生源については何にも感じていないが、

最終的なアウトプットには「不快感」を抱いているのだ。

 

「最終的なアウトプット」-「発生源」

ここに残るものを紐解くことで問題の解決に近づきそうだ。

 

5.カテゴライズ

話はそれるが、「波よ、聞いてくれ」と言う漫画でこんなセリフがある。

人間をカテゴライズする事ほど理解から遠い作業はないと思います 「九州男児は亭主関白」「道産娘は気が強い」「東京もんは冷たい」「B型はクソ」それらの言葉のどこに個々の人格への興味があるでしょうか?

私たちは、他人が自分のことを理解してくれないと嘆くが、

自身はと言うと、飽くまで自身の狭い世界で出会った人の特徴の共通項を見つけてはカテゴライズして収めようとする。なぜこんなことをするのか?

私は彼の独善的な部分を男系社会だからまーしゃあないかなと放置していました。ラクだったからです。カテゴライズして諦めれば彼の欠点に真摯に向き合わずに済んだからです

そう、人は未知なものと向き合うのはとてもしんどい。

だから、カテゴライズには一定の価値があるのも確かだが、本当に理解をしようとするとき・向き合う時にカテゴライズは適さないのだろう。

 

 

6.能力と理解

人は能力でもって人を判断することが多分にある。

その物差しがどんな能力で持って判断しているかと言うことが実は非常に重要である。

オリンピックの金メダリストを英語力だけで判断していたら突っ込むでしょ、そう言うことである。

 

ある本では下記のようなことが述べられていました。

「どんな人間であれ、他を評価する能力だけは意外とある」

どんなに仕事ができないように見えても自身でクリエイティブなことはできなくとも、

いざ他者を評価するときには意外と芯を食って適切なことを言うのです。

 

これは自身の体験としても痛いほど感じるところである。

 

つまり、自身の眼からは能力がないように見えていたとしても、少なからず他を評価すると言う意味においてはそれぞれかなりの能力を持っているのです。

 

7.利他

利他的なことを行なっていても、動機付けが利己的であれば、「利己的と見なされますし、逆に自分のために行なっていたことが、自然と相手をケアすることにつながっていれば、それは「利他的」とみなされます。

つまり「利他」は与えたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのです。

他者への思いや利他とは発信するときに発生するものでなく、他者に受け取られたときに「利他」と感じられるものについて「利他」が発生したと言えるようだ。

 

逆に言えば利他らしい何かは、送った時点ではなにものでもないと言えるのかもしれない。これは利他に限らず、送り手と受け取り手がいる多くのことに言えるのではないだろうか。

 

8.「最終的なアウトプット」-「発生源」

話を戻そう。

 

「最終的なアウトプット」-「発生源」

 

は何かと言えば、作成・監督した人の意図に他ならないない。

このアウトプットの主体となるものの意識・意図である。

 

自身の感謝の感情に突き動かされて作ったと思うだろうか?

 

多くの人は「NO」と答えるはずだ。そう、恐らく打算的に作られているのだ。

打算的に多くの人に向けて作られる物の特徴とは何か。「多くの人に支持される」と言うことと「否定的な意見が少ない」であろうと思われること、である。

 

9.「感動」の押し付け

つまり今回の動画及び施策については、

「多くの人の支持を得ることができ」「否定的な意見はあまりない」と言う打算の元に作られていると言うことが言える。

 

私はここに非常に不快感を覚えている。

 

自身はさほど感動することはないが、対象とする大多数の人間はこのコンテンツで「大概感動するんでしょ」と言う視点を感じざる得ないからだ。

 

リスペクトを含んだ相手にこのようなことをするだろうか?

洞察力の高そうと判断した相手にこのようなことをするだろうか?

 

答えはNOであろう。対象が「こんなもんだろう」と高を括ったからこそできることだ。

 

そう。上から目線を感じざるを得ないのだ。でなければ、何を持ってこのコンテンツを作ったのだと言うのだろうか。

 

10.総論

そして、5と6を考えてみてほしい。

 

5で述べた通り「カテゴライズ」と言う行為は、理解とは程遠い。しかし今回はある「グループ」に対して向けられた物である。感情という難しい問題に対して「カテゴライズ」と言う手法で向かっているのである。

 

そして、6で述べたが人は評価だけは適切にできてしまうのだ。

要するにそこに込められた感情や意図と言うのは意外と感じることができるし、

意外と正しく冷静に見極めるのだ。

 

さらに、送った側はさぞ満足しているだろうが、

それが素晴らしいものかどうかは常に受け取られたときに決まる。

 

まとめるとこうだ。

 

・カテゴライズは理解とは程遠い

・誰でも評価は適切にできる

・受け取られたときに決まる

 

そんな、「人間」を「カテゴライズ」してあたかもわかったかのような、コンテンツを押し付けることに「不快感」がある。

 

主体は対象に白旗をあげリスペクトし、

まっすぐな感情でぶつかるべきではないだろうか。