どこぞやの哲学者は
最大の不幸は人として生まれたこと
だとか言っていたそうです。
生まれた以上不幸である私たちですが、
何となく死という選択肢は選びにくい状況にあります。
だとすれば生きなければならない。
不幸な私たちという前提を背負って生まれてきたのですから、
幸福になろうなんておこがましい話です。
ということは
・生きる
・でも生きることは不幸
このジレンマの中で出来得る最大の好手は、
「不幸な生の中で比較的楽に過ごす」事くらいなのではないでしょうか。
なぜ私たちは不幸になりやすいのか。
こんな言葉があります。
つまり、眼や耳から入ったデータはほとんど使われず、脳が作った「扉を開いても普段通りの日常が続く」というシュミレーションを、あなたは現実として体験するわけです。
私たちの脳は日々生きる中で、
勝手に物語を作っています。
現実を生きているように思っていますが、
多くの場合は脳が作り出した虚像を見て生きています。
実際に目の前で起きている情報は使われないわけです。
そして根本的に人はネガティヴです。
生きていく中で、先の未来で起こり得る危険を察知するためには、
そう言った機能が必要だったんですね。
ということは普通に生きているとこんな状態になります。
- ネガティブな物語を作る
- 目の前の出来事を無視する
- ネガティブな物語という虚像を現実と思い込む
このようなサイクルが続いていくそうです。
通りで生き辛いわけです・・。
ということで、人は基本的に今を生きることが相当難しい状態がデフォルトだということです。
その中でどうやって今を生きるのかということですが、
割と仏教の修行とかが近い気がします。
仏教とかですと、「作務」と言って掃除などの
あらゆる労務が修行の一つとされているんですよね。
これらはただ作業をすればいいということではないそうです。
その一つ一つの動作に集中し、感じ、行うことなのでしょう。
よくよく考えてみれば、
あらゆることを何となくこなしていると思います。
その時おそらく私たちは生きているのではなく、
脳が作った物語を生きているだけなんですよね。
これが人としてのデフォルトであり、
人としてのデフォルトが不幸であるのならば、
ここから外れていくことに答えがありそうです。
それこそが、作務のような修行に込められた想いなのではないのかなと思うのです。
ヨガや瞑想も同じで、今ありのままの自分や呼吸に目を向けることで、
本当の生と対峙するってことだと思うんです。
本当の生と対峙した方が辛そうな気もしますが、
実はそんなことはありません。
私たちが出くわす"一の矢"(痛み)は誰にも避けられません。そこに「現実への抵抗」という行為が加わることで”二の矢”(苦しみ)が生まれるわけです。ならば、現実に対して積極的に「降伏」するのです。
ありのままの痛みは避けることができないとともに、
意外とその痛みではなく、そこから生まれる感情によって僕らは苦しんでいるのです。
どんな時にもその事実に気づいていられれば、
必要以上に不幸な生を生きる必要もなく、
穏やかな日々を過ごせるのかもしれません。