生きるとか仕事とか自意識とか

年齢を重ね経験が増える一方で、常識や固定観念に縛られていく。日々小さな気づきで少しずつでも成長したい。自分なりの「生きる」を見つけるための道。

「精神的な成長」とは「不感」なのか


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精神的な成長、人間的な成熟みたいなものを考えることがある。

 

それは「不感」のような状態を想像させる。

何というかどんな物事にも心が動かず、

寛容で俯瞰で物事を見ているような感じ。

また、感情的になることもない。

 

そんな坊主や仙人のようなものになることこそが、

人間的な成熟なのかと考えてきたし、

今でもそう考えている節がある。

 

しかし、本当にそうなのかということを最近考えるようになった。

 

 

 

 

ある時読んだ本で、

歴史的な偉人「親鸞」が煩悩まみれだと告白していたことにある。

 

「親鸞」のような歴史的な聖人ですら、

死ぬまで煩悩にまみれていたというのだ。

 

すると、人間が何事にも動じない岩のようになることなど不可能なのではないかと考えるようになった。

 

そういった観点を持ちつつ、

様々な本などを読んでみると、「不感」のようなものを誰しも一度は考えるが実はそうではないのではないかという境地に達している人が多いことに気づいた。

 

そもそもどんな事態が起きても何も感じないとすれば、

そんな人ってめちゃめちゃつまらないんじゃないか。ってことにも気づいたのです笑

 

人生やら社会やら仕事やらで起きる様々な苦労や楽しいこと、

そういうものに一喜一憂し、またそういうものを描いたドラマや映画に共感して

また一喜一憂する。そんな日々な訳です。

 

でも不感だとすればそんなものへの共感すらも起きない。

ドラマや映画だって楽しめない。

恋愛だって発生し得ない。

 

そんな状態が人間の行きつくべきところ・・?

どうにもそうは思えない。

また、その境地にたどりつけるとも思えない。

 

というか何事にも動じない心が手に入った時、

楽しいこともないってことだと思う。

喜怒哀楽が基本的に発生しないということだから。

 

多分そんな状態は正しくない。

感情を与えられた生物がそれを使わない状態などおかしいではないか。

 

とすると、成長・成熟の行きつく先とは。。

 

私自身答えはまだ出ていないが、

今まで見聞きした話の中で一番しっくりきているのは、

全ての感情を味わいつくすというものだ。

 

客観的にその感情を感じて、

こんな感情を感じている自分というものを味わい、吟味する。

それこそが人間たる生き方だという。

 

まぁ人間が生きることで感情というのは

どうやっても生まれてくる。

 

その時に一部の感情のみを肯定し、

一部の感情の存在を否定し、消し去るというのはどこかおかしい。

というか前述の話からも多分感情を消し去ることはできない。

 

恐らく、表面上そのように見える人などは、

押さえつけたり見ないようにしている。

 

例えば消し去ろうとしている感情の多くはネガティブなものだと思うが、

ネガティブというのも今の社会や周りの人ににおいてそう考えられているだけだ。

 

そのような普遍的でないものを何となく真理のように捉え、

物事の一部のみを捉えて生きようとすることは、

物凄く危険な行為だし、それが人間らしいかといえば、

人間らしさの何割かを生きるということになる。

 

というか今の自分に判断できることなんてたかが知れている。

そんな狭い視野の中でみるもの見ないものを選ぶことが果たしてどれだけ価値のあることなのか?

 

とすると、やはり出てくる感情、感じること、喜怒哀楽

それらの全てを味わいつくす中で、

自分にとって何がどういう意味を持つのかを必死に考えるしかない気もしてくる。

 

答えは出ないけど、

行きつくべきが「不感」でないことだけは何となく確信しつつある。

もう少しいろんな感情を味わってみようかな。